上川名は柴田町の北東部に位置し、地区の北東部は山林で岩沼市境になり、西部には田園地帯が広がります。町内最大の上川名貝塚は、縄文時代の貝塚として日本でも有名。
上川名舘後があり、「仙台藩古城書上」に上川名城主として上川名監物・勘十郎・市兵衛・五郎八郎・五郎太夫の名があります。江戸時代まで長い歴史を背負った行政府村であり、共同体的な組織体だった上川名が、明治5年4月に「上川名村」となり、自治の第一歩が始まります。明治23年、10か村が合併して槻木村に。その後、槻木村は槻木町となり、昭和31年に槻木町と船岡町が合併して、現在の柴田町が誕生した。地区の面積は約1.35平方k㎡。
人口155人(男子86人・女性69人:平成27年12月1日現在)で、43戸の地区で、町の行政区(42)でも下から2番目に小さい行政区。0歳から9歳4人、10代11人、20代17人、30代16人、40代9人、50代26人、60代32人、70代21人、80代17人、90代2人で、60歳以上が40%を超えます。
昔から戸数にあまり変化がなく50戸前後で推移してきましたが、ここ4、5年で7戸減少し空き家が増えています。
昭和40年代後半頃までは生活を農業に頼っていた家が大部分でしたが、現在は稲作との第2種兼業農家がほとんどです。専業農家は2戸で専業的にに農業に従事している人はいません。
JR東北本線槻木駅、国道4号線まで約3km、県道亘理村田線まで約2kmの距離にあり、地区近くを走る富沢16号線が地区外へ通じる主要道路になっています。地区内の幹線町道は用排水路に挟まれ幅員が狭いうえカーブが多く、道の相互通行が難しい状況になっています。
江戸の元禄時代から昭和50年代前半まで続いた村の相互扶助と最高意思決定を目的とした講である「契約講」をはじめ、山上講、鹿島講、古峯講、観音講、出羽三山講、念仏講、庚申講など、住民の親睦や融和を深める講が数多くありましたが、現在は2つの講が行われるだけで、他は休止となっています。区は5班に分けられ、納税貯蓄組合、冠婚葬祭、農作業など昔から隣近所を中心に相互扶助を行われてきました。青年、壮年など、本来集落の中で中心的な役割を果たすべき世代が大きく減少した一方で、高齢者が占める割合が高くなりましたが、地縁の結びつきの強い安定的な地域社会を形成しています。
お寺、神社(2)を維持し、貝塚や城跡、各講や孫授けなど歴史・風習に恵まれ、ホタルが乱舞し、水田・里山などの自然環境が豊かで、新鮮な野菜や山菜が食べられるなど、多様な地域資源を持っています。
槻木小学校富山分校があったことにより、隣地区である富沢地区との関わりが深く、区民体育祭、敬老会、富上農村公園運営など、共同で各種事業に取り組んでいます。
平成19年度から「農地・水・環境保全向上対策事業」に取り組み、平行して「地区の将来の農業を考える活動」を行っています。地域の自然・食・農・歴史を再生保全し、地域資源を活用して地区外との交流をを活発にし、地域の活性化を図ろうと、平成22年7月に上川名地区活性化推進組合が発足。区・資源保全隊・活性化推進組合の三つのエンジンで、「仲良く、楽しく、安全・安心して生活できる地区」を目指して、地区全体で地域づくりに取り組んでいます。
町内には、この貝塚のほかに松崎・舘前(以上槻木)・中居・金谷・深町(以上入間田)の各貝塚があります。
このうち深町貝塚からは早期の遺物が確認されており、特に上川名貝塚からは早期に続く前期・中期・後期・晩期、さらには弥生時代の土器や石器などが発掘されています。
古くから知られた貝塚で多くの研究者がおとずれており、昭和25年、貝塚の一部についての学術調査が行われました。このときの発掘品のなかに人面土器と呼ばれる土器片が含まれています。
貝塚の中心をなすのはヤマトシジミで、その層の厚さは2mとも4mとも言われ、その下にハマグリなどの階層が確認されています。これは槻木耕土が入海であった時代から汽水域となり、真水へと変化したこの地の数千年にわたる歴史を教えてくれています。
祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)で、慶長年中(1596~1615)日向坊が常陸国(茨城県)の式内社鹿島神宮から幣帛をを受けて奉祀したと伝えられています(大正14年刊『柴田郡誌』)。明治43年、郷社八雲神社に合祀され、戦後分祀されました。
境内は常陸の鹿島神社を模したといわれ、その最たるものが「要石(かなめいし)」です。社殿前の医師の瑞牆(みずがき)に囲まれた岩がそれで地震の源である鯰(なまず)が暴れるのを押さえつけるとの信仰があります。
社殿の後に、太平洋戦争の金属回収の荒波を乗り越えた嘉永年間鋳造の釣鐘があります。
平安時代の初氾め、慈覚大師が東国巡教の折、川上名の地で清浄な石を発見し、地蔵菩薩を刻み安置しました。時代が下り、この地に深く地蔵を信仰する農夫がおりましたが、ある夜、盗賊この農夫を襲い、首を斬り落としました。しかし、よく見ると、斬り落とされたのは農夫ではなく、地蔵尊の首でした。盗賊は恐怖し亘理の常因寺の傅龍和尚に懺悔し、和尚は懇ろに教化得度し、常因寺の住職につかせました。そして自らは上川名に来り能化寺を建立し、地蔵尊を供養しました。その後、地蔵尊は本堂裏山の中腹に祀られました。
天保のころ富沢の百々藤宇衛門は眼病を患い失明の危機にありましたが、長崎生まれの江川宗伯という眼科医の治療によって失明を免れました。藤右衛門は深く感謝し、宗伯が亡くなると能化寺に五輪塔を建立し、玄米五斗入俵10俵を祠堂米(しどうまい)として寄進、飢餓や冷害、災害時に住民の救済に役立てられました。墓地の入り口に立つ五輪塔の由来です。
柴田町では、平成23年4月に町政運営の指針となる「第5次柴田町総合計画」を策定しました。8年後の町の将来像を「みんなで育てる 笑顔輝く 元気なまち」と定め、「参加と協働」「情報の共有」を基軸に、住民一人一人が持つ創造的な力を都市づくりや地域づくりに活かす「住民自治の実践」によって、柴田町の潜在能力を開花させようとする計画です。
上川名地区計画は、柴田町の理想実現の一翼を担い、一番身近な生活圏である上川名地区のあるべき姿を描くものです。地区の課題を解決し、長所や魅力を伸ばし育み、上川名地区の自主的・自発的・自律的な地域づくり活動の指針として平成24年2月に策定しましました。
上川名地区計画(平成24年度から28年度)(PDFファイル)
上川名地区計画の実践計画(PDFファイル)
上川名地区計画の推進体制(PDFファイル)