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郷土の歩み

故:加藤嘉太郎
(大正10年生まれ:平成22年5月没)

 古代、上川名地方は、縄文時代早期より(9000年前)、人間が居住し生活を営んでいた事は、上川名貝塚が何よりの証拠であり、発掘により出土した品々が証明となる事と思われます(昭和21年坪井正五郎氏の発掘)。現在、水田になっている場所は、縄文時代は深い沼地であったと想像されます。海の時代説もありますが、それは何万年以前の事と思われます。名取地方にも縄文時代の遺跡が数多く発見されております。それ等から考えて見ますと槻木地方の縄文時代は、海ではなく沼か又は入海の説が正しいと思われます。上川名貝塚の発掘調査で判明した結果では、下層はハマグリ、上層はシジミと、はっきり分類する事が出来ます。縄文時代は海ではなく沼であり、草が繁っては枯れ、枯れては繁茂を繰り返し、何千年に長い歳月の間、堆積して泥炭層が出来たものと推察されます。現在の槻木地方の水田の大部分は、泥田であります。場所によっては数10メートルも深い泥田であります。鹿嶋神社裏の縄文時代早期の貝塚と中期の上川名貝塚が何よりの証拠と思われます。考古学者坪井氏の発掘調査により、人面土器須恵器や狩具、漁具等数多くの発掘を得て、考古学上貴重なる発見と同時に、上川名地区の歴史を知る上からも大変参考になった事と思います。大正末期や第二次大戦の食糧増産に肥料として乱掘されたことは、遺跡の保存から大変残念な事と思います。上川名貝塚の発掘調査と同時に考えられます事は、先住民族が魚・貝を主食として毎日食べた殻を捨てたのが堆積して何千年もの歳月を経て貝塚が出来たものと考えられます。上川名貝塚が開発されずに、もし保存されたとしたら、青森三内丸山遺跡を上回る程の史跡が有ったと思われます。
海は年々浅くなり海岸の東への後退と同時に、陸地の東への移動に伴い沼の水も年々浅くなり、魚貝等の生息も不可能となり、先住民族も食を求めて移動して行ったものと思われますが、民族達が次の生活をどこに求めて、この地を去り新しい生活を何処に営んだのか全く不明であります。陸地の移動は事実としても先住民族が何千年の長期間、上川名に居住したとしますと、居住跡が発見されなければなりません。然し残念乍発見されておりません。先住民族はおそらく貝塚の規模から想像しますと大集落を形成されておったものと推察されます。その集落跡が畑・水田と開発されたものと思われます。現在は貝塚だけが往時を偲べるだけです。
縄文時代は過ぎて弥生時代に入り、上川名地方にも中央の文化が入り稲作も始まり開田も盛んに行われた事と推察されます。住民達も米麦を主食とするようになり食を狩る時代から作る時代と変わった事と思われます。そして貝を主食とした民族と米を主食とした民族が同一民族であったでしょうか。そして我々はその民族の子孫なのでしょうか、又異民族なのでしょうか。諸説色々ありますが専門家でさえ決定的な事が判明しないのが実状ではないでしょうか。
この地方にも中央の政権が及んだのは何時頃なのか。大和武尊の奥州征伐、坂上田村麻呂の奥州平定(801年:延暦20年)そして前九年の役(1050年:永承6年)源頼義と後三年の役(1189年:文保5年)と奥羽の地に中央の勢力が及んだ事は歴史の上からも想像する事が出来ます。この上川名の地に誰が何時城を築き、この地方を統治したのか。上川名の大舘山に城がいつ築かれたのかは定かではありませんが、奈良時代の律令国家の始めに上川名の地に監物の派遣により、上川名城を築き上川名地方を統治したと思われます(監物とは律令国家時代の官職名である)。監物には大監物と小監物があり上川名監物は小監物と思われます。中央より監物が派遣される程、行政軍事的に非常に重要な地であったと思われますので、想像的に考えて見ようと思います。
縄文時代は交通と言っても現在のように整備された道路と違い、所謂人馬の往来が出来る隣の集落に通る道路が有れば十分であったと思われます。縄文時代は沼地と大湿地帯であり、槻木地方の道路は志賀、盲目転、花舘、西山、雨乞、前原、内海道そして葉坂の鐙摺、滝ノ沢、小泉、村田と、人馬がやっと通れる細道が有ったものと推察されます。この道路の周辺には数多くの縄文遺跡が見られます(雨乞・前原・鐙摺)。そして小泉、蔵王町、刈田郡と続いたものと思われます。やがて弥生時代に入り槻木地方にも米麦の栽培が普及し中央の勢力も東北に及ぶにしたがい、次第に人馬の往来も多くなり道路も整備され高所より平地へと移動し、成田、中江、金谷、塩向、下岬、猫山を通り熊野堂を経て多賀城に通じたのが全国七街道の一つに挙げられる東街道の始まりと思われます。坂上田村麻呂将軍も(801年)もこの街道を通り軍を進め奥羽平定をされた事でしょう。富沢の深山神社、葉坂の折石神社も坂上田村麻呂の戦勝祈願による建立とされております。更に高舘の熊野神社、下岬、小泉にも熊野神社が祀られております。東北には多賀城国府が置かれ国分寺の建立により民心の安定をはかり、東北の文化も発達し中央との交流も盛んに行われ、人馬の往来も多くなり道路も山地より平坦地へと移動し、入間田の中江、西ノ崎、南長谷、北目と、更に室町時代より江戸時代と現在の国道6号線と変わり、江戸時代の参勤交代も行われた事と思われます。名取郡高舘の熊野神社境内に源頼朝が平泉の藤原氏征伐の折に休憩されたと言われる腰掛石が現在も保存され残っております。

 上川名城の大舘山からの眺めは素晴らしいものがあります。槻木平野を眼下に見下し人馬の往来を監視するには重要な場所であったと思われます。この槻木地方の重要なる場所である故に中央より監物を派遣して当地方を統括し人馬の往来を監視されたものと思われます。そして上川名の民心を安定される為に文珠菩薩を奉斎し、台山明神を祭神として区民の信仰を集めたものと思われます。現在上川名城を調査しても城の実在を証明されるものは何一つ残っておりませんが、上川名城に関係ありそうな地名や呼名が残っております。次の地名や呼名を想像しますと、御林、御倉、御下、御登坂、的場、大舘、槍小路、馬々崎、向舘、舘山、西ノ方、下ノ方など数多くの上川名城に関係ありそうな地名が語り、そして呼び継がれております。上川名の北にありながら西の方となぜ呼ばれているのか、私達は全く不思議であったのですが、大舘山に登り梅沢を見下して見ると、梅沢は大舘山の西の方角になります。殿様は上川名城から見た感じで西の方、下の方と分けて呼んだのが現在も語り、そして呼び継がれておる事と思います。
紫桃正隆先生は小畑嘉左エ門氏の後ろを上川名城跡と宮城古城舘史に書いてありますが、大舘山が上川名城跡であり小畑嘉左エ門氏の後ろは屋敷跡かと想像されます。現在も屋敷跡には三宝荒神が祀られております。小高い山の上に神々が祀られたと思われる跡があります。現在の鹿島神社の境内地は上川名城の最前衛基地であったと思われます。囲名の舘山と言われているのもその名残りかと想像されます。この上川名城に上川名氏が何時、監物として派遣されて来たかは定かではありませんが律令国家の誕生と共に監物として派遣され、上川名地方を統治された事と思われます。
上川名氏は何時頃まで上川名城に居城し上川名より何時頃、そして何故に上川名より何処に去って行ったのかは全く不明ですが、色々な言い伝え、古文書又は伊達家治家事録等、数々の古文書を参考に書いて見たいと思います。上川名城に監物の派遣は現在まで不明と言われておりましたが、仙台市の上川名和郎氏の調べで、興国2年(1341年)南北朝時代のことではないかと言われております。上川名和郎氏は仙台市の市会議員をされた上川名武雄氏の次男で仙台市役所在住。
天正6年伊達政宗が米沢城主で有った頃に大崎氏を討つべく兵を進めた時、伊達家と友好関係の黒川月舟斎と長江月鑑斎が大崎氏に加担した為政宗大いに苦戦し、黒川、長江を討つべく大河原の小山田城主小山田筑前頼定を総大将として、成田城主小成田総右エ門重長も参軍させられ、上川名氏もその摩下として従軍しております(小山田筑前頼定は中新田で戦死)。天正17年伊達政宗は豊臣秀吉の命により米沢城より岩出山城に国替えとなり、上川名地方は岩切城主留守氏の統治する事となり、太閤検地(1反歩360坪が300坪となり百姓から刀槍を取り上げ更に苗字を??さる)を不服とする農民の一揆が起きました。上川名氏も百姓を扇動し一揆を起こし、遂に政宗の耳に入り激怒され、領地は没収、身は罪人として築館城主に預かりの身となりました。慶長7年伊達政宗は岩出山城より仙台青葉城に移り、其の後政宗の怒りも解け宮城村の升沢に領地を与えられ明治の始めまで伊達家に仕官したと言われております。現在も升沢に上川名と呼ばれる地名があり、上川名吉成山には上川名家の墓所もあります(仙台市上川名和郎氏調を参考)。上川名和郎氏のお話によれば、上川名家の関係書類がたくさん有ったのですが、太平洋戦争の仙台空襲の時惜しくも消失して関係書類の全てを失い、古老から語り聞かされた事だけとの事でした。
上川名氏が上川名を去った後は、上川名地方は仙台の大年寺の寺領となり(伊達家四代目の廟所)幕末まで続いたと言われております(年貢332石)。もし小畑栄男氏宅が火災にならずに(昭和17年)貴重な書類が消失しなければ、どんなにか参考になった事と思われます。小畑家は代々肝煎の要職にあり仙台の寺に収めた貢納一切の書類が有った事と思います。そして上川名を知る貴重な財産を失い残念でなりません。
 上川名家の失脚後は万治3年から天和元年まで岩沼城主田村右京亮の知行地となり、後仙台藩の蔵入地となりました。伊達家記録には天保郷帳では332石と記されてあります。安永元年より享保年間に窪屋敷(現在の向舘)の肝煎小畑新左エ門は大文字方加金壹分判千金を藩に献納して500文の知行頂戴した家柄でありその後代々勤仕したとされております。
上川名に鹿嶋神社が祀られたのは慶長5年(1600年)常陸国の鹿嶋大神宮(祭神武??大神)より分神し、日向坊が現在の地に建立されたのであります。日向坊とは現在の鹿嶋神社の東に住んでおった坊さんと言われております。以後上川名地区の鎮守として部落民の崇拝を集め350年の間崇拝されて参りましたが、昭和2年(1927年)神社併合の法令が布かれ、入間田の郷社八雲神社に合祀され、境内の見事な松杉の大木が惜しくも伐採されました。昭和27年氏子の願いにより複社され、再び上川名の氏神として祀られたのであります。然し慶長5年に鹿嶋神社が祀られたといたしますと、以前に上川名に神社がなかったのでしょうか。
富沢の深山神社、葉坂の折石神社が坂上田村麻呂の勧詔とされております。入間田の八雲神社、成田の八幡神社と800年前より(1100年)各部落に氏神様が祀られておったものと想像されます。上川名にも当然、氏神様が祀られておったものと想像されますが、徳川時代以前は神社の建築も質素であり一坪位の大きさ又は祠であったと推察されます。安土・桃山時代頃より社寺建築様式も非常に大きくなり華美となり、現在の日本の代表的な建築物は江戸時代以後の建築のようです。上川名氏時代の神社は、推察するに小畑栄男氏の氏神とされている文殊様が上川名氏当時の氏神であったと想像されます。天正年間に上川名氏が築館に移封後の慶長5年に鹿嶋神社が奉斎されたものと推察されます。鹿嶋神社火災により焼失し再建されたものです。神社の棟に伊達家の紋が奉斎されておりますが、焼失後再建に当たり伊達家廟所大年寺に年貢を収めておった関係上、多額の金額を神社再建に寄附奉納された事と推察されます。
上川名能化寺開山は、寛永元年(1624年)亘理郡亘理町小提常因寺四世幡国伝竜和尚の手により開山したとされております。能化寺開山の動機は、ある盗賊が伝竜和尚に懺悔して曰く盗賊が金銭欲しさから盗みに入った(現在の加藤哲雄氏宅)。実は其の夜、梅沢に六分が泊まる事を知り、金銭を盗る事を計画、その夜六分の首を斬ったと思ったら、そこに地蔵菩薩が現れて盗賊が誤って地蔵様の首を斬ってしまった。この地蔵菩薩は慈覚大師が奥州巡業の折、地蔵菩薩を刻んで寺後に安置されたのであった。富沢六地蔵火不動大佛日天月天もこの頃の作と言われております。その地蔵菩薩の首を斬り落としてしまった盗賊は深く後悔し、大雄寺第四世住職幡国伝竜和尚に事件の様子を報告したのであった。事件の様子を報告された伝竜和尚はその盗賊を諭して亘理常因寺に出家させ、その罪滅ぼしに一寺を建立し地蔵菩薩を祀り、上川名梅沢に能化寺を開山建立したのであった。寺後ろに首斬地蔵菩薩が祀られております。(地蔵さんの首を色々な方法で修理しても届かない)
能化寺以前に真言宗の善導院があったと思われますが、葉坂寺、船迫の大光寺と同じ年代に建てられたと思われます。この真言宗の寺は天安元年(1857年)弘法大師の開山と伝えられております。上川名家も檀家だったと想像されますが、上川名氏が伊達氏より上川名追放の後に善頭院は廃寺となり、その後に能化寺が建立されたものと思われます。その後能化寺は火災になり寺の全てを焼失、以前の上川名の歴史も能化寺の過去帳も灰と化した事でしょう。能化寺七世春洞後林大和尚が宝暦8年(1758年)現在の能化寺を再建されたとなっておりますが、能化寺の過去帳には天明6年以降の記録しかなく、それ以前の記録は全くなく開山当時の手掛かりは何一つ残されていないのが現状であります。能化寺の過去帳の中で天明天保の大冷害の様子が想像されます。上川名部落で1箇年40名の死者が出ております(この頃上川名は36戸)。消化不良や伝染病による死者かと思われます(伊達領内の死者30万人と言われています)。
徳川幕府の15代将軍徳川慶喜公は京都二条城において大政奉還し武家政治に終止符をうったのでありますが、新しい維新政府の誕生と同時に新政令が公布され、墓地も個人墓地は禁止され明治7年能化寺の檀家も5人一組の共同墓地を舘山地内に設けたのであります。以来100年間舘山墓地に我々の祖先が葬られたのであります。然し昭和48年舘山墓地の不適の声が起こり、檀家一同集議の結果、能化寺境内に新墓地を整備移転されたのであります。
昭和32年能化寺本堂の萱葺屋根の腐朽甚だしく屋上改築の声が上がり、本堂の屋根葺き替えと庫裡新築が決議され、能化寺持山の裏山の杉材を売却し工事一切を業者に依頼しました。檀家一同、竣工を楽しみに待ったのでありますが、業者の一方的な約束不履行により、完成を見る事なく檀家一同涙を呑んだのであります。能化寺開山以来の不祥事であったと思われます。然し荒れに荒れた能化寺の姿を檀家一同見るに堪えかね、昭和45年本堂の屋上改築が再燃し、檀家一同財を出し合い(昭和47年)見事に落成を見ることが出来たのであります。庫裡はその後放棄されたままとなっており、本堂や墓地は整備されたもの庫裡の破損甚だしく昭和57年新築の議起こるも本堂、墓地と重なる出費の折でもあり議論百出、建築の話は遅々として進まず(昭和54年から4年続きの冷害)、昭和57からの3箇年積立による新築と決定され、昭和58年見事に落成を見たのであります(檀家も材料・労力の奉仕)。
徳川幕府が明治政府に大政奉還し新政府の誕生とともに、上川名部落にも五人組の隣組制が布かれ自治の第一歩が始まったのであります。藩政時代の伊達家の所有地であった山林(現在の上川名森林組合所有地)を払い下げられ上川名村が誕生し、教育・行政・宗教と大改革が行われ、明治5年には寺小屋学校が義務教育となり学校が建てられました。更に明治17年に国土調査が行われ土地境界の大改革が施行されたのであります。明治23年、入間野、四日市場、上川名、富沢、入間田、葉坂、成田、海老穴、小成田、船迫の10箇村が合併して槻木村となったのであります(各部落の所有地全部が村の所有となることが条件)。この所有地も昭和30年町財政事情により財源の一部として上川名に払い下げられたのであります(現在の上川名森林組合所有地)。
昭和6、7年と2年続きの冷害に見舞われ農家の経済は、その窮みに達したのであります。働くに職無く食うに食なし、農家の娘売りのあったのもこの時です。昭和8年農家救済の一環として救済工事が施工され、又皇室より救済の手が差し延べられ恩賜郷倉が建てられ備蓄米の保管所とされたのであります(籾150俵)。更に昭和10年共同作業場が補助事業として新築されたのであります。昭和60年11月まで50年間部落の集会の場として利用された(昭和30年から部落の集会所として利用された)のでありますが、昭和60年度第二次新農業振興法により上川名部落もその恩恵を受け、農業構造改善センターが新築されたのであります(総工費2000万円:敷地代は町半分部落半分)。
昭和20年太平洋戦争の終わりと同時に食糧増産が叫ばれ機械化農業の時代とは言え、上川名の水田の大部分が湿田であり近代農業の農機具の導入が出来ず、国の奨励する裏作事業も遅々として進まず、農民を失望させたのであります。昭和27年積雪寒冷単作地帯振興法が成立し、槻木土地改良区組合が設立され用水・排水区画整理事業が進められ巨費と長い年月を費やして見事に完成を見ることが出来たのであります。この大成の念に農民の多額の負担と忍耐と努力が結集された事実を忘れてはならないと思います。
昭和48年農村環境整備モデル事業が上川名にも適用され、農村集落道と排水路の改修が始められ、梅沢・大坂・押茂・四軒屋前・神廻戸の道路拡張、舗装工事が行われ、梅沢・押茂堀が改修整備されたのであります。更に大鹿野林道が昭和54年に着工され昭和60年に完成を見ることができたのであります。林道、水路、道路、集会場等の完成を見る事が出来たのも区民一丸となり一致団結して、町当局に請願陳情を重ね、私財を拠出互の協力の賜と思います(郷土の歩みの碑に刻記)。
明治政府の誕生により武士団の解体、農地改革が行われ、国民の三大義務(徴兵・教育・納税)が法令化され上川名からも数多くの軍人を出したのであります。西南の役、日清・日露・満州・支那・太平洋戦争と多くの出征兵士を出して尊い生命を失ったのであります。この尊い犠牲者のあった事を忘れてはならないと思います(上川名出身戦病死者13名能化寺慰霊塔に刻名されてある)。昭和16年太平洋戦争となり国民必死の奮闘も空しく20年8月15日ポツダム宣言を受諾、無条件降伏をいたしたのであります。国民の貧苦は筆舌に言い表すことのできない悲惨なものでした。以後、国民の勤勉、努力、忍耐、節約と困苦に耐え現在の日本があり、日本の繁栄は国民一人一人の汗の結晶の賜であることを忘れてはならないと思います。

□追記1
日支事変・太平洋戦争に郷土上川名出身者は70名が招集されました。無念にも郷土の土を踏むことなく私達の同僚13名が戦病死されました。この上川名郷土の史実として後世に伝えたいと念ずるものであります。
□追記2
江川宗伯氏は長崎県に生まれオランダ医学を学び眼科医となり、天保年間に上川名窪入小畑新左エ門(肝煎)宅に逗留して地方の眼科医として、天保14年10月14日没するまで、妻子もなく舘山地内の小畑家の墓地に祀られております。
能化寺の五輪塔は、富沢坂本の百々藤右エ門氏が江川宗伯に両眼の失明寸前の目を治療回復してもらった事に感謝、五輪塔を建立寄進し供養した(妻子がいない江川宗伯氏は後々供養が永久に続く事を念じ5斗俵10俵を永代供養料として寄進)。その当時は天保の大飢饉であり村人は競ってその穀米を借り受け、現在でも年1割の利米とし江川宗伯の命日10月14日まで納入していますが、これが現在も続いている詞堂穀であります(借受人:上川名区民37名)。百々藤右エ門氏は上川名畑中東から富沢坂本に養子に行った方です。
□追記3
上川名にも史実として縄文早期より弥生初期に至る貴重な遺跡があり、又小部落でありながら鹿嶋神社、能化寺と他部落に優る維持管理を行ってきた祖先の業績に敬意を表し、現世に伝えてきた事実を賞賛し、上川名部落で行われてきた伝統行事を守り後世に伝える責任があると思います。その伝統行事と数々の講が消えて行く事実は誠に残念でありません。この上川名が他部落と肩を並べてきた根性は長年の伝統行事や講により、育成された事と思います。今後も永く続くことを願います。
□追記4
富沢岩崎に石佛塔が祀られておりますが、その石佛塔の中で善光寺川中島三尊像と三十三観音像は、上川名部落有志の寄進によるものであります。一体一体に御詠歌が刻まれており寺の名前も刻まれております。近江、京都、奈良地方の寺名(柴田町史Ⅰ)に記されておりますので略します。

■父・嘉太郎が、平成3年3月に和紙に70ページ程「郷土の歩み」として毛筆で書き綴ったものをタイプしたものです。70歳頃に書いたものです。故加藤定夫氏や故加藤英昭氏など地元の皆さんや、柴田町郷土研究会の皆さんたちと話したことや、古老から聞いたことや、本を読んだり旅したことで得た知識をもとに書いたものと思われます。自説や間違って書いている部分もあるかと思いますが、専門家に検証もお願いしないで、ありのままにタイプしました。新たな事実や風習(講や伝統行事)などが加筆され深化する資料になればと願っています。
城・寺を巡ることが好きな人です。書もたしなみ、やさしい字を書く人と思っています。40代後半に大病しましたが、転んで骨折して歩けなくなる80歳まで農業一筋(特に時代を先取りした野菜づくり)でした。私と晩酌しながら昔のことや政治などを話すことを楽しみにしていました。手間取りに出されたことや、戦時中・戦後のこと、想像できない苦労があったことと思うが、何故か、父はいつも楽しいこととして語っていました。

郷土史研究部会:加藤嘉昭